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御菓子司 寶月堂(1) 2021-03-26

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「古いものに新しさが宿っている」

「御菓子司 寶月堂」高畑響子さん インタビュー(1)
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丸亀の港町。ひとつ、またひとつと当時の町の歴史を物語る建物が解体されていく中、一際目立つ白い漆喰の建物があります。寶月堂さんは今年創業104年を迎えた老舗の和菓子屋さん。代表の高畑さんは創業100年をきっかけに、新しい価値を生み出すべく、歴史ある建物の面影を残しながら、大規模なリノベーションをされました。そんな高畑さんに、リノベーションのことや、古いものを残していくこと、未来へ繋いでいくことについてお話を伺いました。


家族の歴史と想いを繋ぐ

創業104年(大正6年創業)ということですが、どういったルーツで丸亀で和菓子屋さんを始めるようになったんでしょうか?

私の祖父が、当時、菓子屋を近所で始めたのが今から104年前のことです。現在の場所が気にいったんですね。それを購入して、ここに移転してきました。この建物は125年前のものですが、改装を繰り返しながら今も使用しています。
それから祖父から父へ、父から母へ、そのあと私が継ぐことになりました。

すんなりと商売に入ったという感じですか?

そうですね、小さい頃から親を見ながら育ってきたので。
うちの父は30代で亡くなったんですね、私が幼稚園の時でした。なので、母が1人で苦労をしたんです。祖父母より先に父が亡くなったので、祖父母が寝込めばお世話をしたり、介護が必要になればそれを看たりと……商売をしながらやっていました。昔は従業員も多く、住み込みの職人さんもたくさんいたのでごつい人やったと思います。

母はずっと日本舞踊の師匠をしていたので、それまで全然商売なんてしたこともなかった人だったんですが「私がやるしかない! 子どももおるから!」ということで、頑張ってくれて、代表取締役を50年以上もしたという…

そうだったんですね。それはお母様のことを支えたくなりますね。

そうなんです。母をずっと見ていて「早く手伝いたい」という想いはどんどん大きくなりました。

そこから和菓子作りの勉強を?

それが私は手に職を持ってないんです。母が「うちには職人がいっぱいおるから、あんたは作らんと、経営を勉強しなさい」と。なので、お菓子作りは習いませんでした。

でも手に職がないことで、感じるジレンマも色々とあったのは事実ですね。
そしたら、娘も見ていたんでしょうね、突然高3の進路を決める時に「私大学行かんけん!」って言いだして。地元の進学校だったので、私もすっかり大学に行くものと思ってましたから、すごく驚きました。
そんなことで娘が「私が作りたい」と言ってくれて、卒業後は職人になるべく、京都に行きましたね。

なるほど。娘さんもまた高畑さんの背中を見てらっしゃったんですね。

娘に関しても母の影響は大きかったと思います。私が仕事に携わるようになってからは、母がお店に入りながら、孫の面倒も見ながらみたいな感じでやっていたので、娘は「おばあちゃんみたいになりたい」というのはよく言っていました。
娘は古典芸能好きの母の影響で、今も古典的なことが好きで、それが仕事にも活かされているように思います。私には分からないことがたくさんですけどね(笑)


娘夫婦と共に、新しいステージへ

高畑さんご自身は、このお仕事に携わるようになってどれくらいになるんですか?

40年弱ですね。年がばれる~(笑)

お母様がされてきて……高畑さんが物心つくようになってからだと、40年50年になると思うんですけど、お客様や商品の変化などがある中で、何か印象的なポイントや意識が変わった経験はありますか?

そうですね……うちは「丸亀のお菓子」というのをずっとやってきたんですが、それが「香川県のお菓子」になり、さらには「全国でも売れるお菓子」に変わっていったということでしょうか。

何か働きかけをしたんでしょうか?

実は私の娘は、以前京都の和菓子店で手に職を付けていました。その時に、そこで営業をしていた人とご縁があって、結婚してこっちに帰ってきてくれたんです。それがでかしたな! って感じで(笑) 

なんと!

がいなでしょ(笑)
でも、京都で経験を積んだ彼と話をしていく中で、今後はこうやってしていかないかんなぁと、少しずつ私の視野が広がってきたのは一番大きいかなと思ってますね。ありがたかったです。

娘たちと一緒にするようになって5年くらいですが、二人がこちらに戻ってきた当時は、まだ現在の形(2017年改築)になる前の店舗だったんです。前の建物は老朽がかなり進んで、壁が落ちてきたり、雨漏りもしたりとちょっと状態がひどかったんですね。それで母が「もうこれ潰して建て直さないかんなぁ」とよく言っていました。

ですが、私は古い建物がすごく好きで残したかったんです。なので「え! それはいかんいかん。いつか私が絶対どうにかするから、このまま置いておいて!」と。
その後母が亡くなった後、創業100年を迎えたのを機に、母との約束でもあったので、娘夫婦とも相談しつつ……勇気はいりましたが、リノベーションすることにしました。

決まったら、今度は止まらないですよね(笑)。私は古い建物が大好きだし、娘は「ここで和菓子教室をやりたい」と言っていたので、「じゃぁここはこうしようか」みたいな感じでどんどん夢が膨らみ、話が進んでいきました。こまかな打ち合わせを何度も繰り返し、新店舗は半年ほどで完成しました。

新店舗でリノベーションの面白さを痛切に感じた私は、その後、その勢いを緩めることなく、次に店舗の南側に隣接している南館のリノベーションも一気にスタートさせました。南館は、昔母が砂糖問屋さんから買ったもので、一階は工場として使用していて、二階・三階部分がすごく凝った造りになっていました。様々な要素を織り混ぜた、この看板建築をこのまま老朽化させてはいけないと、国の登録有形文化財の登録まで取得し、文化庁の制約を受けながらも、階段を新しくつけたり、天井を抜いたり…と私の「こうしたい!」という想いを図面なしで業者さんにぶつけて、3年の工期で完成させました。


やって分かったリスクの大きさ。それでも残したいという想い

3年! それは大変な作業でしたね。でもお好きなことだからワクワクもしながらできたってことでしょうか?

いや、店舗の続きに少し軽い気持ちで始めたとは言え、およその予算っていうのがあったんですが、その3倍にもなってしまって。
というのが、めくったらシロアリが入っていたとか、そんなのがいっぱいで……古い建物はそういうのが付き物ですからね。「ここ土台から作り直しやなぁ!」と大工さんと言いながら、私も付きっきりで、手を加えてもらいましたが、予想外に大変なことになってしまいました。

古い建物を残すということはすごくリスクも大きいということは、良く分かりました。それでも残したいという想いを叶えられた喜びは何事にも代えられませんでした。

思い切ったことで嬉しいこともありました。娘のやりたかった和菓子教室も開催出来るようになったし、以前、丸亀でジャズストリートというイベントがあって、うちも参加して、2階の多目的スぺ―スをコンサート会場として使ってもらいました。この周辺にもいくつか会場があったのですが、後の反省会の時に出演したアーティストさんが「次はここでやらせて」とみなさんが言ってくれたそうで、素直に「やったー!」って嬉しかったですね。

もう本当にボロボロでしたから。でもやって良かったなって、特に周りの方から高い評価を頂いた時はやっと陽の目を見たなというか、むちゃくちゃ嬉しかったです。
少しのところで、母に見せられなかったのが残念でしたね。


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